奇跡の後の苦行の始まり
1917年10月13日に起きた一大奇跡は、ヨーロッパ中に知れ渡り支持者が増えていきました。
一方で妨害する者も現れ、この奇跡をあらゆる手段で葬り去ろうとしました。
そんな中、3人の子供に絶大な援助の手を差しのべたのは、オタワールの主任神父兼ウレム郡主席司祭のフォスティーノ・ジョセ・ジャシソト・フェレイラ師でした。
この神父は、数千人の信者たちの顔を全て記憶できるという能力があったと言われています。
彼は、しばしばルシアとフランシスコ、ジャシンタの家を訪れては子供たちの世話を焼きながら、本格的な信仰への道を歩むように導いていました。

後に、ルシアが”悲しみのマリア”と呼ばれる修道女となって神に仕える身となったのは、このフェレイラ師の人徳が大きく影響した結果です。
コバ・ダ・イリアの渓谷は、大挙して押しかける巡礼者たちに踏み荒らされてルシアの家の所有地であった畑はもはや使いものになっておらず、また、大波のように押し寄せる訪問客らによって3人の子供たちは心身共に疲労しきっている状態でした。
この聖母出現の奇跡を、教会至上主義者が仕組んだ罠だとして、過激派はコバ・ダ・イリアに押しかけ、”出現の門”や信者がおいた”感謝の石板”その他の供物を略奪し、聖地化された出現の場所をメチャメチャにして、大騒ぎを演じながら村中をねり歩きました。

自由主義新聞は、事実無根の記事を書きたてて嘲笑しました。
このような妨害について、3人の子供たちは聖母から諭された”苦行″なのだと理解し、ますます信仰を高め、祈りに明け暮れました。
1917年9月頃から、3人の子供たちは「読み書きを学んでくださいね」という聖母のアドバイスに従って、学校へ行くようになりました。
(これは、子供達にうるさくつきまとう訪問者たちの目を逃れるために両家の母親が考え出した方策でもありました。)
3人の子供は猛烈に勉強し、目覚ましい進歩を遂げ、成績は相当なものだったと言われています。授業時間中も、彼らは校内の聖堂へ入って祈ったりしていたそうです。
そしてフランシスコとジャシンタは天国へ
そんな中で、奇跡の聖母の予言は実現の方向に向かっていました。
ヨーロッパで猛威をふるった「スペイン風邪」がポルトガルにも襲いかかり、1918年のクリスマスの前々日に、フランシスコがひどく発熱して倒れたのでした。

フランシスコは聖母の予言を信じていたため、すでに死期が近づいていることを悟っていました。病床で祈りの言葉を唱え、1日にロザリオの祈りを何度も繰り返して過ごし、翌年の4月4日に激しい気管支肺炎を併発し、他界しました。
彼は、死の瞬間まで「苦しい」という言葉を口に出すことはなく、周囲に集まった人々に心から感謝の言葉を述べて、早朝6時頃に、わずか10年の短い劇的な生涯を終えたのです。
息を引き取る直前に、戸口の所に美しい光を見たと言い残しているのは聖母が約束通り天国へと迎えに来たのでしょうか。
続いて妹のジャシンタも病魔に襲われ、1920年2月20日に昇天しました。
ジャシンタは、第1回の聖母とのコンタクトが始まるまでは、繊細な性格の気むずかしい子でしたが、コンタクトが始まってからは、打って変わったように柔順になり、幼いながらも熱烈な信仰者となりました。

風邪の悪化からひどい化膿性肋膜炎になり入院しましたが良くならず、一旦ファティマの自宅に帰りました。この頃、病床のジャシンタは、しばしば聖母マリアの幻とコンタクトをしていて、「リスボンの他の病院へ入院しなさい」とのお告げがあったと言います。
そこで家族は、ジャシンタを仮の住処として2週間の間、孤児院に入れました。
孤児院での生活態度について、院長のシスター・ゴジンホは次のように証言しています。
「ジャシンタは遊びがあまり好きではなく、小食で、自分の病気については決して苦痛を訴えることもなく、毎日ロザリオを唱えていました。人間が嘘をつくことを極端に嫌い、聖堂に入ることを好み、特別祭壇に通じる一室に入ってよく祈りました。この敬虞な態度は他の人々の注目の的となったのです。」
1920年2月2日にはドナ・ステファニア病院に運ばれ、名医のレオナルド・デ・カストロ・フレーレ院長の手で手術を受けたのですが、ジャシンタ自身はその前に聖母の幻とコンタクトし、すでに快復の望みが絶たれたことを知らされていたので、死を覚悟していました。
果たして大手術の効果はなく、最後の聖母の出現から3日後の2月20日、金曜日の午後10時、静かに別れの言葉を告げて、わずか11歳足らずで地上を去って行きました。
死が近づいた頃、ジャシンタの病室の前を見舞いの婦人や看護婦たちが派手な服装をして通りかかると、ジャシンタは次のようにつぶやいたと記録されています。
「あんな格好をしてなんの役に立つのでしょう。あの人たちが”永遠”とは何かを理解していたら・・・ 」
死後も遺体から香気が放たれたり、15年後と31年後の2度にわたり掘り起こされた遺体の顔は全く腐れていない等、一連の奇跡を見せたジャシンタの亡骸は、リスボンで盛大な葬儀が行われたあと、故郷ファティマのコバ・ダ・イリアへ運ばれて、兄フランシスコの眠る小さな墓のなかに納められました。
「聖母の出現を見たフランシスコとジャシンタの遺体、ここに眠る」

(死後も腐敗しないジャシンタ)
残されたルシアが選んだ道
三人の中で一人残ったルシアは13歳になっていましたが、彼女は変わらず受難の日々を過ごしていました。
しかし、1920年に新たな司教として赴任してきた高徳の聖職者であるジョセ・アルベス・コレイア・ダ・シルバ師が、ルシアをかばい、妨害者の手から守るためと勉学の機会を与えるために、彼女を密かにボルト・ピラールの孤児院へ送ったのでした。

ピラールの孤児院では、4年間勉学に励み優秀な成績をあげて初等教育を修了したほか、家政、家事一般も学び、刺しゅうやタイプライティング、印刷植字の技術まで修得したそうです。
一方ファティマでは、奇跡が起きた場所に壮大な大聖堂の建設に着手していました。1922年5月13日には、6万人の大巡礼団が当局の特別禁止令をおかしてデモを行ったが、このなかに、ルシアの母親マリア・ローザとジャシンタの母オリンピアが最も熱心な信徒として参加していました。

1925年の夏、ルシアはスペインのツイにある聖ドロテア会修道院に入り、翌26年の10月2日には着衣式を受けて正規の修道女となったのです。
思えば彼女はヒイラギの木の前で聖母にこう告げられていました。
「フランシスコとジャシンタの2人をそう遠くないうちに迎えに来るけれども、ルシアはこの世に長く生き残って人々の信仰を高めるための奉仕を続けなければいけない。」
参考サイト:GA Site
※このブログは特定の宗教とは一切関係ありません。私個人として信仰心は認めていますが、宗教には属しておりません。
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