比較の無意味さについて。

ピカピカの赤ちゃんの頃って、どの人も植物と同じように自分全開ありのままでダイナミックに存在しているんだけど、ほとんどの場合、義務教育が始まった時点でそれは失われはじめるのだと思う。

それまでは幼稚園でも保育園でも基本的には「自由遊び」をして過ごせていた。
それが翌年からいきなり長時間椅子にジッと座り、左脳的知識の詰め込みを余儀なくされる。
幼稚園や保育園までは右脳(感覚的、想像力)も全開なのだけど、小学校からはまるで左脳しか使うことを許されないかのような世界に入り込むことになる。
右脳的な「音楽」「図工」の時間も圧倒的に少なく、なんなら絵の描き方さえコンクールで入賞するための描き方を突き付けられてしまったりする。
そこから先は、テストの点数によって「人間」を評価されてしまうんだけど、そもそも人間という存在は左脳的知識の点数で決められるためにこの世界に生まれてきたのだろうか?
一番まずいのは、どの教科も点数がとれて、集団行動の枠内から突出しない人間を大人が何世代にも渡り求め続けているという点。
変えようとしない。変わらない。
何も言わない。
なんならそこにすら気づいていない。
考えない、感じない。
これが日本人が無意識に守っている
「普通であること」なのだ。
その中で9年〜16年子供は成長していかないといけないんだから、その過程において本当の自分を見失うのは至極当然のことかもしれない。
そのうち「自分らしく生きること」よりも、「ちゃんとやっている」「常識的である」「大人として出来ている」
そんな事にとらわれて生きることになり、
たまに他人と自分を比べながら、自分の出来ている度合いを確認してみたりするのだろう。
本当は自分と他者を比べても無意味なことで。
なぜなら皆んな違うから。
なぜ今ストレス社会なのか?
「違い」を認められない、受け入れられない社会だから。
人が人に抱く「変わってる」という印象は、その人が持っている認知度や許容量からその相手がはみ出てしまっている事による思い込みなのだ。
やはり数秘というツールを使ってみると、人の持つ人生のシナリオは千差万別であり、特徴も性質もまた然りだという事を痛感させられる。
例えば自分が「林檎」だとしたら、世の中の人間は全て「林檎」なのだという思い込みで見比べ始めるんだけど、
実際は自分が林檎でも周りにいる人はナスやトマトやバナナやスイカやジャガイモだったりするのだから、それを比較していても無駄な時間とエネルギーの消費に過ぎない。
最近個人的に注目している人物は落合陽一さんなのですが、彼は完全に別の惑星から高度なテクノロジーを携えてやってきたインディゴだと思います。
インディゴはこの地球の旧いシステムを破壊し、新時代を築くべくやってきたスターシードなのですが、あまりにも長いこと旧いシステムが根強く地球を支配していて、思いのほかインディゴたちは苦戦して生きづらさを抱え、思う存分そのチカラを発揮できずにいたんだけど、
この落合さんという人は全開でそれをやってのけようとしているように思っています。
なかなか魂の計画を発揮しきれずに、自分を見失ってるスターシード達に元気と勇気を与えているのではないでしょうか。
とはいえ、まだまだ地球人らしく(?)振る舞えていないようですね(笑)
本来その必要さえあるのかどうか…だけどね。

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